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『海』 小川 洋子

評価:
小川 洋子
新潮社
¥ 1,404
(2006-10-28)

小川洋子さんの本を読んでいていつも感じるのは、彼女が‘もう元にはもどせないもの’にたいしてとても真摯であるということ。
これまで読んできたどのお話にも、喪失感があるがままの冷静さでそこにある・・・だからなのか、つむぎ出された透明な言葉たちはみるみるなめらかな水になり、私の心のいびつなくぼみ、ひび割れたぶぶんに驚くほどの自然さでしみてくるのです。

これは、そんな彼女の最新作。短編集です。
『海』、『風薫るウィーンの旅六日間』、『バタフライ和文タイプ事務所』、『銀色のかぎ針』、『缶入りドロップ』、『ひよこトラック』、『ガイド』。やはりこれらももう元にはもどせない――失くしてしまったものや不完全なものに焦点があてられていて、儚くてどこか淋しげ。それでいてじんわりとしたあたたかさも伝わってくるお話たちでした。
どれもすごく私の肌に合ったのですが、やはり白眉は、『薬指の標本』を彷彿させる『バタフライ―』でしょうか。漢字のひとつひとつにまで命が吹きこまれ、小川さん独特の官能世界がひっそりと広がっています。

『バタフライ和文タイプ事務所』
ここは医学生の為に論文の和文タイプを請け負う事務所。
レバーを握り、広い活字盤の中から一つの文字を探す手の動きは、さしずめ「花の蜜を求めて飛ぶ蝶のよう」。新入りタイピストの「私」は、ある日上の階にもう一人の従業員・活字管理人がいることを知って・・・。
活字そのものが芳香を放ちそうに甘美な静謐、女性器の内部に眠る襞を表す活字の欠落、そこを細やかに這う男の指先から目が離せない「私」――
活字たちのささめきと彼の息遣いだけが満ちる濡れたような一室に、私まで囚われてしまいました。

なぞろうとするとふわりと消えてしまいそうな、曖昧で幻想的なそれぞれの物語の闇は、小さくてもどこまでも踏み込んでいける奥深さ。
「詩など必要としない人は大勢いるが、思い出を持たない人間はいない」(『ガイド』)
死や別れから、過ぎ去ってしまった時間まで。‘もう元にはもどせないもの’を大切にすくいとり、ふっくらと掌でつつみ込む・・・そんな小川さんの姿がまぶたの裏にうかんでくるようです。
Author: ことり
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