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『花々と星々と』 犬養 道子

そして私自身は、(中略)小さな女の子として彼らのまん中にいた。彼らの中の、たとえば岸田劉生や武者小路実篤や長与又郎や戴天仇や古島一雄が、いったい、どう言う人たちで、大正・昭和の歴史の形成に、どんな重い役割を持つ人々であったのか、小さい女の子は何ひとつ知りはしなかった。小さい女の子にとって、彼らは、人生の最初の日々をこの上なく充たされたものにつくり上げてくれ、心の中にはきらめきを与えてくれる、花のごとく星のごとき存在、ただそれだけであったのだ。父や母や祖父や祖母は、とりわけて色調ゆたかな花であり、ひときわ輝く星であった。(あとがき)

可憐なタイトル、美しいカリグラフィーで彩られたおしゃれな装丁――
ずっと以前から読みたいと思っていたこの本は、五・一五事件で兇弾に倒れた犬養首相の孫にあたる道子さんの自伝です。
・・・ここに登場する少女(道ちゃん)の、なんて清潔でのびやかなこと!
全14編のうち、冒頭の『陶器の人形』で私は完全に彼女の虜になってしまいました。

幼い道ちゃんにとって一ばんの仕事は、毎年クリスマスに一人ずつ増えていくお友達――すなわち人形――に、両親に手伝ってもらいながら性質と名前を「さがし出して」やること。
ある日、クリスマスでもないのに外国から陶器製の美しい人形が贈られてきます。いつものように名前をつけてあげなくては・・・そう思ったのに両親はその陶器の女の子だけは道ちゃんから遠ざけてしまいました。よけいに近づきたい道ちゃんは、ピアノのうえに手をのばすけれど、人形は手を滑り――・・・
陶器の鮮やかな色彩と光沢。それが砕々になった姿。現状を理解するには彼女はまだ幼すぎて、道ちゃんは底知れぬ後悔のなかで懇願します。「時間を戻してよ」
女中が時計の針を戻していたように、時間を戻したら陶器の人形も自分の失敗も、きっとすべて元にもどるもの・・・。でも父は彼女の絶望と恐怖を取りのぞいてやれないのを悲しむようにしずかにこう告げるのです。
「出来ないんだよ、道ちゃん。時を戻したり、前の時に戻ったりすることは、だれにもパパにも出来ないんだよ」
私たちはずいぶん長い間抱き合ったままでいた。私はあのときのことをよく覚えている。ほんとうによく覚えている。やり直しのきかぬ人生の恐ろしさをはじめて知ったあのときのこと。時の容赦ない流れの上に生きている人間が共通して持つあわれさを――とりもなおさず偶有のあわれさを――はじめて味わったあの日のこと。蝉しぐれ、紺の香。父のかすかな汗の匂い。

この本には、もう元にはもどせない過去の時間がきらきらとまたたいています。
白樺派の作家である父のもとには、武者さんや芥川(龍之介)さんがたずねて来る。岸田さんは父と相撲をとるし、石井(桃子)さんは祖父の書物整理の手つだいで登場する。愛と教養にみちた遠くはかない日々たち。
やがて首相となった祖父は暗殺され、日本は灰色一色にぬりつぶされていく――
砕けた陶器の人形のように、ゆがんだ歴史も、けっして元にはもどせない。

私はこの本を、犬養首相の孫の自伝、というよりも一人の恵まれた聡明な少女の成長物語として読みました。
出生の華やかさがもたらす不便や苦労、祖父のショッキングな最期で負った哀しみの深さはとうてい計り知れないけれど・・・。
ただ、仲睦まじく想像力豊かにそだててくれた両親のたっぷりの愛情、子ども扱いすることなくほんものの精神を教えてくれたたくさんの個性的な白樺派の大人たち・・・そんな花々と星々にかこまれた自由な空気のなかですこやかに成長していく少女はかわいらしい朝露をふくんだつぼみのようにみずみずしくて、かけがえのない財産をほんの小さな頃から惜しげもなく与えられていたことが、とても眩しくうらやましくうつったのです。
Author: ことり
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