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『トリエステの坂道』 須賀 敦子

サバが愛したトリエステ。重なりあい、うねってつづく旧市街の黒いスレート屋根の上に、淡い色の空がひろがり、その向うにアドリア海があった。(中略)サバがいたら。私は大声で彼の名を呼びたかった。朝の光のなかに、この金色の髪を風になびかせ、カモメとたわむれる長身の青年を見て、詩人はなんといっただろう。

心の奥底のほうから、ひたひたとみちてくるあたたかくて哀しい記憶。
亡き夫ペッピーノが「いつかきみをつれていく」と約束しながら果たせなかった思い出の地、大好きな詩人ウンベルト・サバの故郷トリエステを、夫の没後20年を経てひとり訪ねるところからはじまるエッセイ。
サバの詩をたどるように、須賀さんは坂の多いトリエステの町を歩きつづけます。
つかのまの結婚生活でとつぜん逝ってしまったペッピーノ――愛する夫への思いは、低く切なげな弦楽器のしらべのようにいつも彼女の文章に寄りそっていて、私をしみるような泣きたいような気持ちにさせる。
あかるい日ざし、なつかしの電車道、親しい人と交わしたなにげない会話。貧しさや孤独に向き合いながら生きぬいた人びとの姿が目にうかび、風や町の匂いをすぐそばで感じながら、彼女だけの記憶の小径を私も歩いていたような気がします。

最後の『ふるえる手』という章が、なかでもとりわけ好きでした。
ローマでぐうぜん見つけた由緒ある道ヴィア・ジュリア、教会の祭壇にあるカラヴァッジョの絵画、『ある家族の会話』との運命的な出会い、そして作者ナタリアの訃報・・・哀しく美しいエピソードが宝物のように織りこまれていく章です。
それらが須賀さんの記憶のなかでひとつに重なり光となってゆらめくさまが手にとるように伝わって、胸がふるえました。そのとき・・・孤独を抱きしめ、サバの「自分を映してみる一本の道」をさがす彼女の姿も、私のなかで柔らかにひそやかな光となったのかもしれません。
しがみつくようにして私がナタリアの本を読んでいるのを見て、夫は笑った。わかってたよ。彼はいった。書店にこの本が配達されたとき、ぱらぱらとページをめくってすぐに、これはきみの本だって思った。
Author: ことり
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