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『やさしい訴え』 小川 洋子

チェンバロ。きゃしゃで華麗な装飾をほどこした、ピアノに似た楽器です。
弦をハンマーで叩いて音をだすピアノとちがい、鳥の羽根でつまびくため音がつながっていかないチェンバロ。そんな刹那の音色のような、傷つきやすい孤独な魂たちが織りなす物語。

アルファベットを美しくデザイン・清書する、カリグラファーとして働く「わたし」。
夫から逃れ、山あいの別荘に1人でやってきた「わたし」は、そこでチェンバロ製作者の新田氏に出逢い、惹かれてゆきます。けれど新田氏のそばには、いつも影のようにぴったりとよりそう女弟子・薫さんがいたのです。
新田氏と薫さんと「わたし」。3人の、あやうい均衡が保たれたやさしい関係。
やがて「わたし」と新田氏は肉体関係をむすびます。しなやかな指、熱い唇が、「わたし」のあらゆるすき間、くぼみを這い回り、その一夜の秘密を共有することで「わたし」は薫さんを出し抜いたと錯覚します。けれど――
わたしと新田氏が身体を密着させたよりももっと強く、もっと深く、二人は結びついていた。目に見えない温もりで互いを癒し合っているのが、わたしにも分った。(中略)昨日までわたしが持っていた秘密の喜びは、貧相な脱け殻となって胸の片隅に転がっていた。

恋の苦しみは「わたし」を狂わせ、ほとばしる激情が残酷なまでに描かれる・・・それでいて、まるで林の奥のみずうみを思わせるこの透明な静けさはどうでしょう。
頁をめくる指先から、ラモーの小曲『やさしい訴え』のせつなげな旋律が心にしみ入ってくるようでした。「わたし」が恋に落ちる瞬間も、新田氏が薫さんに心ひらいている瞬間も、永遠の別れのひとときを心に刻む瞬間も・・・すべての瞬間ごと鳥の羽根をふるわせるようにそっとつつみ込んで、どこか遠くへと運び去ってしまいそう。
もうにどと触れることのできない、はかなく遠い、美しい物語でした。
Author: ことり
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