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『密やかな結晶』 小川 洋子

リボン、香水、エメラルド、切手・・・
ありふれたものの名前が、異国の少女がつぶやく耳慣れない言葉に聴こえる。
オルゴール、ラムネ、ハーモニカ・・・
心細く、どこかたよりなげに。懐かしく心をゆさぶる、鈴のころがる音みたいに。

記憶狩りによって、ひとつずつ、記憶が消されてゆく哀しい島。
島の人びとはなにをなくしたのかさえ思い出せないまま、新たな消滅を受け入れ潔くうち捨ててゆきます。けれどなかには記憶をなくさない人もいて、彼らはものものしい秘密警察に追われることとなるのです。
小説家の「わたし」は、やさしいおじいさんとともに、記憶をなくさない編集者・R氏を隠し部屋でかくまうことに――

これほど幻想的な舞台でありながら、隠れ家、秘密警察、焚書など、そこにはナチスのユダヤ人狩りを連想せずにはいられない哀しいモチーフがあふれています。
消えてゆくものたち、記憶をなくした人となくさない人、そのはざまに横たわる深いみぞ。どんなに身体をよりそわせ、かさねても、分かり合えない心と心。小川さんはそんな絶望にみちた情景を、ささやかな物音や息づかいまでもあまさずにすくい上げ、美しい文章につむいでみせてくれています。
消滅してしまったものたちの話を聞くのは、神経のある一部分を酷使しなければならなかった。しかしそれが少しも不愉快ではなかった。(中略)子供の頃地下室で母さんと秘密の時間を過ごした時と同じように、わたしはただ無邪気に耳を傾けているだけだった。まるで神様が空から降らせてくれるチョコレートを一つ残らず受け止めようと、スカートの裾を広げて待っているかのような気分だった。
ひっそりと慎ましやかで甘美なものもの・・・その佇まい、その記憶。
たとえばいまここにあるコーヒーポットやジャムの小瓶、文庫本や新聞紙や食べかけのクッキー・・・見慣れた風景にぽつんぽつんとあるとるにたらないものたちが、この本を読んだ後ではたまらなく大切で愛おしく感じられました。

手で触れたなら、跡形もなく消えうせてしまう雪の結晶のように儚く美しい世界観。
けれどこの物語は私のなかでずっとずっと消えないことでしょう。
心は、物語をとじ込めておける永遠の器だから。

「物語の記憶は、誰にも消せないわ」
Author: ことり
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