<< 『バラはバラの木に咲く―花と木をめぐる10の詞章』 坂本 公延*prev
『おてんばルル』 イヴ・サンローラン、(訳)東野 純子 >>*next
 

『春にして君を離れ』 アガサ・クリスティー、(訳)中村 妙子

優しい夫、よき子供に恵まれ、女は理想の家庭を築き上げたことに満ち足りていた。が、娘の病気見舞いを終えてバグダッドからイギリスへ帰る途中で出会った友人との会話から、それまでの親子関係、夫婦の愛情に疑問を抱きはじめる・・・女の愛の迷いを冷たく見据え、繊細かつ流麗に描いたロマンチック・サスペンス。

‘ミステリーの女王’アガサ・クリスティーさんが別名義で書かれたという、犯人も探偵も登場しない――もちろん殺人も起こらない――しずかな物語です。
けれどもけっして穏やかではなくて、一見幸せそうなのにほんとうは壊れている家族の姿に人間関係の危うさ、脆さを痛感させられます。推理ものではありませんが、ぐりぐりと読み手の胸をえぐり侵食してくる、ジワリと怖いそんな小説。

「何日も何日も自分のことばかり考えてすごしたら、自分についてどんな新しい発見をすると思って?」
沙漠の駅でひとり足止めをくらった中年女性・ジョーンが向き合うことになったのは、家族を愛していながら、いいえ愛しているからこそ赦しがたいひとりよがりな自分自身。話し相手のいない孤独のなかで、彼女はこれまでの生き方をふり返り、我儘で見栄っぱりな自分の愚かしさに気づいていきます。
夫の農場経営の夢を一蹴したこと、「お母さまって、誰のこともぜんぜんわかっちゃいない」という息子の言葉、レスリーのお墓に落ちた赤いしゃくなげの蕾、断片的に去来するシェイクスピアの十四行詩(ソネット)――。
今にして思えばあれは・・・。そんなふうに頭をよぎるさまざまな過去の情景、自分に都合よく解釈してきただけなのでは?という疑念。ジョーンの不安は堂々巡り、みずからの心の鎖にどんどんからめとられていくのです。

自分が思う「私」と、他人から見た「私」。そのあいだにある‘ズレ’を冷めた目で見つめ、容赦なく描き出した一冊。ラストでは心が凍りつく思いがしました。
私はどうかしら・・・よき妻、よき娘、よき友かしら。私もジョーンのように誰かを縛り、追いつめてはいないかしら・・・。ある意味こんな怖ろしい本はないかもしれません。

(原題『ABSENT IN THE SPRING』)
Author: ことり
海外カ行(クリスティー) | permalink | - | -
 
 

スポンサーサイト

Author: スポンサードリンク
- | permalink | - | -