『グラジオラスの耳』 井上 荒野

「あたしには男が一人必要なのよ・・・ないと困るのよ、ないと、あたしは完成しないのよ」惰性でつきあっている恋人が手放せない淳子。「今度の男はガイジンでフリンよ」とうそぶく寿美野。得体の知れない青年とともに「グラジオラス会」なる奇妙な企てに熱中するリエ――どこにも繋がっていないロープにすがる女たち。
井上荒野の周到にして不穏な罠に酔う。
Author: ことり
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『雉猫心中』 井上 荒野

評価:
井上 荒野
新潮社
¥ 637
(2011-11-28)

雉猫に導かれて男女は出会った。男には妻と娘がいた。女には中学教師の夫がいた。貪り合う二人。これは愛なのか。夫の奇妙な性癖、近所の不気味な老人、理解不能な中学生たち。二人とともに景色も蠢く。どうしてもやめられなかった、どちらかの身が滅びるまでは――。
男女それぞれの視点から同じ出来事を語り、嘘やすれ違う感情を重層的に描き出した、著者の新境地を示す恋愛長編。

それぞれに家庭をもつ男女の性愛を描いた小説だから、当然爽やかに読めるはずもないのだけれど・・・それにしてもひどく不気味なお話でした。
甘美な感傷はことごとく排除され、あるのはただ、生身の肉体と欲望だけ。

ある日一ぴきの雉猫を介して、退屈な主婦・知子と影のある男・晩鳥(ばんどり)は知りあいます。時間を置かずお互いをもとめる二人ですが、でもこれはたんたんと破滅に向かうさまをうつし出すような、月並みな不倫小説ではありませんでした。
まずは女性が語り、おなじできごとを男性の視点からもう一度語るという構成。たとえば二人が出会うシーンで、知子は晩鳥に孤独を感じ、晩鳥は知子に物欲しそうな目線を見るなど、たがいの思惑の違いや嘘までもうかび上がらせてゆきます。
強く執着しているようなのに、どこか身勝手で冷めたところもある二人。彼らをとりまく人たちもみな異様な妖しさをまとい、そんなざらざらした緊迫のなかで知子と晩鳥はこっそりと、けれど激しく貪りあう・・・行間から官能がしたたり落ちて、哀しくていやらしい関係がなまなまと迫ってくるのです。

けだるく、艶かしく、辺りを埋めつくす張りつめた狂気・・・
けっして共感はできないし、どこまでも不毛な小説だとも思うけれど、内側から揺さぶられるような凄みを感じてしまったのもまた事実なのです。
Author: ことり
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『そこへ行くな』 井上 荒野

評価:
井上 荒野
集英社
¥ 1,680
(2011-06-24)

夫婦同然に暮らしてきた男の秘密を知らせる一本の電話(『遊園地』)。バスの事故で死んだ母はどこへ行こうとしていたのか(『ガラスの学校』)。中学の同窓生達が集まったあの部屋の、一夜(『ベルモンドハイツ401』)。「追っかけ」にあけくれた大学生活、彼女の就職は決まらない(『サークル』)。引っ越し先の古い団地には、老人ばかりが住んでいた(『団地』)。貸しグラウンドの女事務員が、なぜ俺の部屋を訪ねて来るのか(『野球場』)。母の入院先に、嫌われ者の同級生も入院してきた(『病院』)。
行くつもりはなかった。行きたくもなかった「場所」へ――全七編収録。

女たちのなまなましい感情がうようよとたち込め、不透明によどんだゼリーみたい。
読んでいるとたまらなく息苦しくなっていくのに、でも、やめられない・・・そんないやな吸引力のある短篇集でした。
行ってはならない場所に、つい踏み込んでしまうような。

ありふれた日常がゆがんでいく様子。
誰かのささやかな悪意に、すこしずつ崩されていく‘砂の城’――脆弱な幸福。
優位かどうかはわからないが、幸福なのは知らない女のほうだろう。あの電話がかかってくる以前のほうが、今よりも私が幸福だったのは間違いないから。くぐもった声の女は、自分よりも幸福な女がいることに耐えかねて、電話をかけてきたのだろう。(『遊園地』)

どのお話も、濃密な澱みを煮つめに煮つめ・・・ぱっと開放する唐突なラストが待っています。そのつづきのいちいちに、ぼんやりと思いをめぐらせてしまった私です。
Author: ことり
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『森のなかのママ』 井上 荒野

画家だったパパの突然の死から五年。浮き世離れしたママと、美術館に改装した家で暮らす大学生のいずみ。離れの間借り人、渋い老人の伏見に恋しているが、伏見はじめ美術館に出入りする男たちはみなママに夢中だ。ある日、放映されたパパのドキュメンタリー番組に、パパの愛人が出演していた・・・。
なにが起ころうと否応なしに続いていく人生と渡り合うために、ママがとった意外な行動とは――。

難儀で頑固ないずみ、のほほんと奔放な未亡人のママ、ママの取り巻きの男たち。彼らの織りなすいっぷう変わった日々の物語です。
無邪気で行動が読めない‘自由人’のママにふりまわされるいずみの暮し。おまけに死んだパパのかつての愛人まで登場する始末です。
こんなにも厄介なのに、でも物語はほわんほわんで、綿毛みたいにやさしい。
いずみの友だちも、ママを慕う男性たちも、みんなひょうひょうと気のいい人たち。
悲しみ、淋しさ、心の動揺・・・そんな負の感情をおもてに押しだすのではなく、日常のちょっとした場面やなにげない会話のなかにチラ、とかいま見せてくれる荒野さんの文章が好き。

ママがまわりの人を惹きつけてしまう理由がすこしずつ分かって嬉しくなります。
これまでの人生、ママにもいろんな葛藤があったはず。それらぜんぶ‘のほほん’でくるんで、誰も傷つけず、誰も責めず、ママはしずかに人生と格闘しているんだね。
「まあ、人生たまにはものすごくならないとね」
こんなセリフをふふふ、と笑いながら言えちゃうママが逞しくて恰好いいです。
Author: ことり
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『静子の日常』 井上 荒野

評価:
井上 荒野
中央公論新社
¥ 1,470
(2009-07)

とるにたらない日常、ばかげたできごと――
チャーミングで痛快、75歳の静子さんとその家族の物語です。

フィットネスクラブのプールでは、すみれ色の水着に着替えてイルカ飛び。
新聞配達のバイトくんとは川べりでバーボンを酌みかわし、息子夫婦の微妙な空気に感づいてはさりげなくかき回して便宜をはかる。30年来避けてきた過去の恋人に会いに行ったりもしてしまう静子さんはとってもかわいらしくて元気なおばあちゃま。
でもけっして勝手きままに生きているわけではなくて、「息子夫婦の子育てにはいっさい口を挟まない」など、自分で決めたことを守りぬく意志の強さももち合わせている静子さんは、同居している家族との関係も良好なのです。

家から5分のところにあるバス停。この場所で静子さんは思います。
ここに来るバスに乗れば、たいていのところへ行ける。
「たいてい」どころじゃないわ、どこだって行けるわ、行きたいところにはどこだって行ける。
どこだって行ける。なんて力強いことばなのでしょう。そしてそれは、自分でえらんでここにいる、そのことの裏返しでもあるのだと思いました。
とるにたらない日常、ばかげたできごと。でも、帰るべき場所があることのシアワセ。
ちっぽけだけどしっかりとした日々の重みが感じられて、「いいな、こんなふうに私も年をかさねられたらな」なんて自分をとりまくたわいない日常もいとおしくなるような、そんな物語でした。
Author: ことり
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『夜を着る』 井上 荒野

評価:
井上 荒野
文藝春秋
¥ 1,260
(2008-02)

井上荒野さんの最新短編集。こちらは‘小さな旅’がテーマ。
『アナーキー』、『映画的な子供』、『ヒッチハイク』、『終電は一時七分』、『I島の思い出』、『夜を着る』、『三日前の死』、『よそのひとの夏』――不穏な緊張感を静かにたたえた8編を収録しています。

彼女の文章を読むといつも、‘あえて語られないぶぶん’に惹かれてしまう私です。
ぽっかりと空けられたすきまから立ち上る危うい空気。それがひっそりと透明な物語をどんどん不穏な色に染めていって・・・なんだか胸がドキドキとしてくるのです。
たとえば『映画的な子供』で主人公がスカートのすそのほつれを見知らぬ男に指摘される場面。大きく揺らいだ少女の心と、ほんのりただよう艶かしさ――そんな小さな一場面でさえも。
この本で一ばん好きだったお話は、『ヒッチハイク』。

『ヒッチハイク』
母の葬儀の帰り道、クマキと名のるヒッチハイク青年を乗せた治子夫妻。しばらくして、クマキからお礼の葉書が届く。
ある日、母の味を真似た秋刀魚のつみれに眉をひそめた夫に腹をたて、「昨日クマキ君とセックスする夢を見たの」と告げた治子は、なりゆきでクマキに会いに一人伊豆へ向かうことに・・・。

母の死後直面するさまざまな‘終わり’にたいする喪失感、そんななかで放たれた夫のなにげないひと言、クマキとの淫夢・・・治子をあらぬ方向へと衝き動かしていく複雑な感情の蓄積、その描かれ方がすばらしかった。
じりじりとかたちを変えてゆく、満たされなさ。捉えどころのなさ。文章のすきまに蠢くなまなましい気持ちのゆれに、思わずため息がこぼれてしまいました。
Author: ことり
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『ベーコン』 井上 荒野

評価:
井上 荒野
集英社
¥ 1,470
(2007-10-26)

ささいで、そして艶めかしい、食べるという日常の営み。
人の気持ちが動くとき、人生が少しだけ変わるとき、傍らにある料理と、それを食べる人々の心の機微を描いた珠玉の短編集。

江國香織さんの『温かなお皿』、山田詠美さんの『風味絶佳』、角田光代さんの『彼女のこんだて帖』・・・食べものにまつわるお話ばかりを集めた短編集、というのはたぶんそれほどめずらしくないはずだけど、この本のどのお話にも荒野さんらしさ――ちょっぴり皮肉めいてどことなくアンニュイな――がきちんとあらわれているのがよかった。
『ほうとう』、『クリスマスのミートパイ』、『アイリッシュ・シチュー』、『大人のカツサンド』、『煮こごり』、『ゆで卵のキーマカレー』、『父の水餃子』、『目玉焼き、トーストにのっけて』、『ベーコン』。9つの物語。
一ばん好きなお話は『煮こごり』。これは「鵜飼光一は、虎に噛み殺されていた。」こんなセンセーショナルな一文から始まります。31年ものあいだ、毎週日曜日に料理上手な愛人を待って暮らした女と、彼の死後発覚するいくつもの‘嘘’の物語。

食事というのは不思議なもので、明日の身体をつくるための糧であるのはもちろんだけど、いっしょにおなじものを食べる喜びや、口にしたとたん舌の記憶にふと時間が巻きもどされたり、そこにはいろんな思いがくっついてくるもの。
そしてそれはある意味においてもっともエロティックな行為・・・。
とるにたらない、けれど大切な日常の営みが、大人の性愛の色香にいろどりをそえる短編集です。
Author: ことり
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『誰よりも美しい妻』 井上 荒野

評価:
井上 荒野
マガジンハウス
¥ 1,575
(2005-12-15)

著名なヴァイオリニストの夫と、バレエ教室に通う「誰よりも美しい妻」。
妻を愛しながらも浮気をくり返す子供じみた男と、その浮気をすべて知りながら、けっして覚っているそぶりを見せない妻の、不可思議な情愛を描いた物語。
「誰よりも美しい妻」である園子を中心に、夫・惣介、息子・深、夫の‘恋人’から先妻まで・・・登場人物のほとんど全員がそれぞれメインになる章があり、彼ら全員の心理描写――かけひきやすれ違いを愉しむ、そんな描かれ方をしているようです。

夫の‘孤独’を愛している園子は、夫のことならばなんでも分かります。彼の気分も、今してほしいこともすべて。彼が恋をしているかどうかさえも。
そして恋をしている夫にも、夫がつれてくる恋人にも動じない、そんな園子にたいして息子の深が「怠惰だ」と言い放つ場面が印象的でした。
夫がどれだけ恋をしようと、自分の愛にも夫の愛にもゆるぎない自信を持ち、まるで母港のようにじっと夫の帰りを待つ完ぺきな妻。彼女はたしかに怠惰で痛々しいのかもしれないけれど、幸せなのか不幸なのかと言われれば、きっと、幸せなのだと思いました。
信じられる・・・それ自体もう幸せなのだから。

私が夫を愛することをやめたら、夫は廃人のようになってしまうだろう。少なくとも、ヴァイオリンは弾き続けられないだろう。それは、それほど夫が私を愛しているからではない。私が夫を愛しているからだ。私が自分を愛し続けることを、惣介は信じているからだ。
Author: ことり
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『だりや荘』 井上 荒野

評価:
井上 荒野
文藝春秋
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(2004-07-22)

信州を思わせる、山深い土地。姉と妹、そして妹の夫の三角関係を描いた物語。
こんなにどろどろしたお話を、どうしてこうも透明に、淡々と書けるんだろう。

事故死した両親がのこしたペンション「だりや荘」を引き継ぎ、はかなく美しい姉の椿と、明るく可愛らしい妹の杏(あんず)、その夫の迅人(はやと)・・・いっけん穏やかに3人の生活は始まります。けれどもその穏やかさは、ぎりぎりのところで状況を保ちつづける姉妹がつくり出した‘偽りの姿’なのです。
杏は姉と夫の仲に気づきながらも知らぬふりをよそおい、椿は妹がぜんぶ知っているのではないかと怖れます。そんなふたりのあいだで、無邪気に両方との関係をつづける男、迅人。この男の無神経さ、なんにも分かってなさには読んでいて憎悪すらおぼえてしまったほど・・・。
小さなころから仲がよく、いまだっておたがいを好きな気持ちに変わりはない姉と妹。それでもふたりは迅人から離れられない。こんな生活はいつまで続くのか、出口はあるのか・・・暗闇を手さぐりでさまよい、薄氷をふむようにして進む物語のトンネルは後半になるにつれどんどんとせまくなり、こちらを圧迫するようでした。

3つ違いのとても仲のよい妹がいるせいで、姉妹もの――小説、映画、絵本、何であれ――には少しとくべつな思いで接する傾向にある私。
妹とおなじ男性を愛したことはないけれど、このお話のおたがいを思いあう姉妹の哀しさは痛いくらいに分かってしまいました。裏切られ傷つきながらも、憎むことなんてできやしない、気づけばどこかで赦している・・・姉妹というのはそんなふうに複雑でやっかいで親密な――ほかの誰も入りこめない――関係だと思うから。

そのとき椿はぞっとした。この世界で自分は一人きりだ、と感じたのだ。もっとも、そんなふうな孤独を感じるのははじめてではなかった。ぞっとしたのは、同じ孤独を、同じ深さで、杏も感じているに違いない、と突然気づいたからだった。
Author: ことり
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