『眠れる美女』 川端 康成

波の音高い海辺の宿は、すでに男ではなくなった老人たちのための逸楽の館であった。深紅のビロードのカーテンをめぐらせた一室に、前後不覚に眠らされた裸形の若い女――その傍らで一夜を過す老人の眼は、みずみずしい娘の肉体を透して、訪れつつある死の相を凝視している。熟れすぎた果実の腐臭に似た芳香を放つデカダンス文学の名作『眠れる美女』のほか『片腕』『散りぬるを』。

昏睡した少女の裸体にまとわりつく、年老いた男の淫らな視線。
少女のなまあたたかな呼気と匂いに、よび覚まされる遠い過去の情事――
甘く昏いゆらめきのなかで、指先や舌先で触れた皮膚がぬめらかに匂いたちます。読んでいて引いてしまうほどにいやらしい世界。それなのに、思わずくらくらと陶酔してしまったのは、あまりにも美しく幻想的な文章のせいなのでしょうか。
かりそめの夜、濡れたような赤い脣、びろうどのかあてんに映るほの明り。潮の香り、謎めいた眠り薬、ひと糸纏わぬ少女たちがこんこんと眠る館・・・描写のひとつひとつ、その隅々にまで、なんともいえない日本文学の湿度を感じました。
どこまでも、どこまでも、じっとりと疲弊した深い眠りに落ちてゆくみたい・・・。

そして、表題作もそうとう印象的ですが、やはり『片腕』。この短編は『川端康成集―片腕』でも読みましたが、なんど読んでも痺れてしまいます。
きめ細やかに描きだされる女性の身体、うす闇の靄の向こうにかいま見える老いと死が、むせ返るほどの官能をよび込む一冊。
エロティシズム・・・けっしてあからさまではない、おさえ込んだ性描写にこそそれはひそんでいるのかもしれません。
Author: ことり
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『川端康成集―片腕』 川端 康成

日本初のノーベル文学賞に輝いた川端康成は、生涯にわたり幽暗妖美な心霊の世界に魅入られた作家であった。一高在学中の処女作「ちよ」から晩年の傑作「片腕」まで、川端美学の背後には、常に怪しの気配がある。心霊学に傾倒した若き日の抒情的佳品や、凄絶な幻視に満ちた掌篇群、戦後の妖気漂う名品まで、川端文学の源泉となった底深い霊異の世界を史上初めて総展望する、至高の恋愛怪談集成。

ひやりと背すじを這うつめたさ。それでいて芳醇な花の蜜にくらりと酔わされてしまいそうな、そんな幽暗妖美な29編。
どのお話も、人の情念や思惑を美しい言葉の渦に溶けこませ、不思議な艶かしさであちらとこちらの世界を結んでいます。

七年前に死んだ男が主人公の『地獄』、山峡の村が舞台の少女小説『薔薇の幽霊』など、心惹かれるお話はたくさんありましたが、でもやっぱり『片腕』は別格かしら。ある雨の夜、娘が自分の片腕を肩からはずし・・・、ひと晩貸してくれる物語です。
娘の腕とひと晩を過ごす男。大きい花をいっぱいに咲かせたガラスびんの泰山木。
白い花よりもこぼれたしべをながめていると、「テエブルの上においた娘の腕が指を尺取虫のように伸び縮みさせて動いて来て、しべを拾い集めた。」
まぶたの裏にふうわりと妖しい情景がうかび上がります。娘の腕をやわらかくなで、そっと手を握りあってみじかい会話を交わし、娘のきれいにみがかれた爪に見入る時のあまやかな官能――。
脆く小さい貝殻や薄く小さい花びらよりも、この爪の方が透き通るように見える。そしてなによりも、悲劇の露と思える。娘は日ごと夜ごと、女の悲劇の美をみがくことに丹精をこめて来た。それが私の孤独にしみる。私の孤独が娘の爪にしたたって、悲劇の露とするのかもしれない。
このうっとりとした美しさ。・・・もうため息しか、出てこない。
Author: ことり
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『山の音』 川端 康成

評価:
川端 康成
新潮社
¥ 580
(1957-04)

深夜ふと響いてくる山の音を死の予告と恐れながら、信吾の胸には昔あこがれた人の美しいイメージが消えない。息子の嫁の可憐な姿に若々しい恋心をゆさぶられるという老人のくすんだ心境を地模様として、老妻、息子、嫁、出戻りの娘たちの心理的葛藤を影に、日本の家の名伏しがたい悲しさが、感情の微細なひだに至るまで巧みに描き出されている。戦後文学の最高峰に位する名作である。

舞台は緑ゆたかな鎌倉市。いくつもの世代が当たり前に同居をしていたある時代のある一家、そのしずかな日常が描かれてゆく物語です。
夫として、父として、舅として・・・主人公・信吾の家族それぞれにたいする微妙な感情、老齢からくる疲弊感や死期への恐怖。そんななかにたんねんに書きつけられていく一人の男としての若々しい欲望――若い娘と触れあった夢をみたり、秘書とダンスホールに行ってみたり、濡れた花のような能面の口唇にあやうく接吻しかかったり――これはきっと信吾世代の男性の方にはたまらない一冊なんだと思う。

萩の向うにちらちらと見え隠れする蝶たち、艶かしい能面をつけた女の見えるか見えないかのあごから咽へ伝わる涙――美しい文章で鮮やかに切りとられた一瞬一瞬が、すぐさま頭のなかで像を結び、いまここで見ているような錯覚をよびます。
川端康成さんの書かれた日本語って、なんでこんなにきれいなのでしょう。
そして美しいばかりでなく、いろんな経験をしてきた大人の男性だけがもち得るもの哀しさ、哀愁のようなものが文章に感じられて、読みながら深々とため息をこぼしてしまいました。
Author: ことり
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『古都』 川端 康成

評価:
川端 康成
新潮社
¥ 460
(1968-08)

捨子ではあったが京の商家の一人娘として美しく成長した千重子は、祇園祭の夜、自分に瓜二つの村娘苗子に出逢い、胸が騒いだ。二人はふたごだった。互いにひかれあい、懐かしみあいながらも永すぎた環境の違いから一緒には暮すことができない・・・。
古都の深い面影、移ろう四季の景物の中に由緒ある史跡のかずかずを織り込み、流麗な筆致で描く美しい長編小説。

もみじの幹に一尺ほど離れて咲く二株のすみれ。上のすみれと下のすみれはおたがいに知っているのかしら・・・千重子がお庭を見ながらそんなふうに考える冒頭のシーン。そこからいっきに世界に引き込まれてしまっていました。
はんなりと美しい京ことば、空に向かってまっすぐ伸びる杉木立、四季折々の京のお祭りや花の色――歴史ある京の街を舞台に広がる繊細でたおやかな物語世界。お話を彩るひとつひとつが素晴らしくきれいなのです。

呉服屋の千重子は西陣の職工・秀男に頼み、苗子のための帯を織ってもらいます。千重子にかなわぬ想いをよせる秀男は苗子に千重子の‘幻’をみて・・・。
どちらの姉妹にも感じるのは、杉の木のようにまっすぐで芯の通った意思の強さ。けれどそれぞれの姉妹が思う願望を千重子は声に出して訴え、いっぽうの苗子は千重子を気づかい胸の奥にしまい込みます。姉妹愛ともいうべき心の揺れがしずかに伝わってくるお話でした。
山深い北山杉の林のなかで、20年も引き裂かれて育ったふたごがおたがいの違いを目の当たりにするところ、そして初めて一夜をともに過すラストシーン・・・気づけばうっすらと涙ぐんでいた私です。
いましみじみと胸をみたすこの余韻を、日々の雑事でうやむやに壊れてしまわぬようそっと固めてとっておけたらいいのに・・・。

「さいわいは短うて、さびしさは長いのとちがいまっしゃろか。」
Author: ことり
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