『レディ・ジョーカー』(上・下) 眤 薫

人質は350万キロリットルのビールだ――業界のガリバー・日之出麦酒を狙った未曾有の企業テロは、なぜ起こったか。
男たちを呑み込む闇社会の凄絶な営みと暴力を描いて、いま、人間存在の深淵を覗く、前人未到の物語が始まる。

マークスの山』、『照柿』につづく、合田刑事シリーズ最終章。
ひと口に言ってしまえば、大手ビール会社で労働組合運動に関わった兄の死をきっかけに、一人の薬局店主が競馬仲間たちとともに営利誘拐を計画するお話です。
しかし当初は単純だったはずの事件も地下金融がからみ、政治家や総会屋が動き出し、やがては社会全体を翻弄していきます。
一連の事件が、標的となったビール会社社長、犯行グループ、警察、新聞記者たちの視点から描かれる、複雑な社会派ストーリー。

ハァーー・・・とっても憔悴。思わずこぼれ落ちるため息。
読後、ものすごい虚脱感に襲われてしまった私です。
お話のヴォリュームもさることながら、これでもかというくらい人びとの弱さや苦しみを見せつけられたあとで、すべてが足元から崩れ去っていくそのやるせなさ。そして誰ひとり幸せになれない、そんな底知れぬ哀しさに。
眤爾気鵑両説のなかでもこの本はとくにむずかしくて(だって、ふつうに生きてきた主婦に地下金融のしくみなんて分かりっこないもの・・)、正直なかなか入り込めないぶぶんもあったのだけど、お話のどこをとっても男たちの心の葛藤、かけひきや焦燥感が文面につまっていて、壮大な人間ドラマに揺さぶられました。
・・・人間って、どうしてこんなにも哀しいのかな・・・。
ダイナミックな筆力とどこまでも奥深い人物描写は、とにかく「すごい!」このひと言に尽きるのです。

薬局店主が犯行を思いつくときの、こんな描写が印象に残ったので記しておきます。
そのとき物井は、今や軀と化した一人の男を眺めながら、どこから湧いてきたのか分からない言いしれぬ感情の渦の中にいた。目の前の死はたんに、かつて見たいくつもの牛馬の屍や、頭を垂れて馬喰に引かれていった駒子の姿や、芳枝の醜い死に顔など分かちがたく重なり合っていただけで、個人の悲哀さえ伴ってはいなかったが、突然、その軀の周りに自分自身の人生の全部がざわざわと引き寄せられて、ごうごう、ひゅうひゅうと騒がしく鳴り出したのだ。
Author: ことり
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『照柿』(上・下) 眤 薫

ホステス殺害事件を追う合田雄一郎は、電車飛び込み事故に遭遇、轢死した女とホームで掴み合っていた男の妻・佐野美保子に一目惚れする。だが美保子は、幼なじみの野田達夫と逢引きを続ける関係だった。葡萄のような女の瞳は、合田を嫉妬に狂わせ、野田を猜疑に悩ませる。(上巻)
難航するホステス殺害事件で、合田雄一郎は一線を越えた捜査を進める。平凡な人生を十七年送ってきた野田達夫だったが、容疑者として警察に追われる美保子を匿いつつ、不眠のまま熱処理工場で働き続ける。そして殺人は起こった。暑すぎた夏に、二人の男が辿り着く場所とは――。(下巻) 現代の「罪と罰」を全面改稿。

うだるような熱帯夜、熱処理工場で燃えたぎる浸炭炉。8月の東京・大阪を舞台に、熱気、不眠、焦燥が照柿色に染めあげていく、熱い、熱い物語。
「照柿」。それは唯一、晩秋の西日に照らされて映える熟柿の色・・・。

マークスの山』で活躍した合田刑事の第2弾。
とにかくディテイル描写がすさまじい一冊・・・眤爾気鵑良力が冴えわたります。
出てくるすべての事件はもちろん、合田刑事と達夫との過去の確執、現在の苦悩、それぞれの人生の軌跡・・・それらがもうひと雫たりとも漏らさない、そんな勢いで詳細に描かれていくのです。
前半の熱処理工場の工程説明なんて、執拗なくらいの細かさに、途中でほとんど投げだしたくなってしまったほど。だけど後半、とくに下巻に入ったあたりからはもう夢中で読み進めてしまいました。燃えるように熱いなにかが波となり、いっきにおしよせてくる感じ、とでも言うのかしら。
ラスト間近。照柿色の雨のなか、合田刑事と達夫が交わす会話がずっしりと胸にひびいて、読み終えてまだ呆然としています。

冷静沈着。頭脳明晰。合田刑事にはそんなどこかつめたいイメージを持っていた私ですが、この本を読んでがらりと印象が変わってしまいました。
道ならぬ博打、行きずりの女への横恋慕、職権乱用。
けれど、暴走していく彼のなかにもあったほとばしる想い、燃えるように熱いもの・・・そこに彼の人間らしさを見つけたのは、きっと私だけではないはず。
Author: ことり
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『マークスの山』 眤 薫

昭和51年南アルプスで播かれた犯罪の種は16年後、東京で連続殺人として開花した――精神に<暗い山>を抱える殺人者マークスが跳ぶ。元組員、高級官僚、そしてまた・・・謎の凶器で惨殺される被害者。バラバラの被害者を結ぶ糸は?マークスが握る秘密とは?
捜査妨害の圧力に抗しながら、冷血の殺人者を追いつめる警視庁捜査第一課七係合田刑事らの活躍を圧倒的にリアルに描き切る本格的警察小説の誕生。

平成5年上半期の直木賞受賞作です。
当時まだ10代だった私は、なんだかむずかしそうと思って敬遠してしまったのですが、今からでも読んでよかった、そう思います。

16年かけてあばかれる犯罪を、その「播種」から追っていくというストーリー。
精神分裂症を患う犯人と彼に愛情をそそぐたった一人の女性、長い年月をかけて犯罪が犯罪を生みだす過程・・・そこにそれぞれの事件で立ち上げられた捜査本部の動向がリアルに描き出され、連続殺人事件の謎を追うことで、しだいに過去に埋もれた殺人事件がうかび上がってくるのです。
登場人物ひとりひとりにリアリティがあるというのかしら、表の顔に隠された裏の表情みたいなものまできちんと描かれていて、刑事同士のやりとりなど細部にわたって楽しめます。ただ、警視庁捜査一課・合田刑事の周辺の刑事たちがある時は名前、ある時はあだ名で出てくるので整理するのが大変ではあったのだけど・・・。

隠蔽された殺人をあばくのが凄惨な連続殺人事件だったということ、それからマークスのぬぐい去れない傷と心のなかの深い闇が、壮大な雪山の残像と共鳴し、ひどくせつない余韻を味わいました。
それにしても女性作家とは思えない、なんてゴツゴツと骨太な文章なのでしょう。それでいて、冷静なのに熱気が伝わってくるこの感じ・・・熱いのです。
男性作家顔負けの、‘男前な’小説を堪能しました。
Author: ことり
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